2017年10月11日

八ヶ岳の風の加工品の始まり

 母の義兄は東北大学農学部の教授で、大学を退官後は田舎に畑付きの家を建てて自分で研究がてらなのか論文を書きながら農薬を使用しないで野菜などを栽培していました。
 
自分で作った野菜や山で採れたアケビや山菜、薬草などを時々送ってきました。
時折、山のウドと栽培種のウドを掛け合わせた自作の新品種だの、今ではよく見かけますが20年も前の昔には見たこともないようなインカ系かなにかの変わったジャガイモの種イモを北海道の教授仲間となにやら研究していたのか、そんな変わったジャガイモなどが届くこともありました。どう料理したら良いのやらわからないような、いわゆる珍品種に近いものもありましたが....。
 
叔父はひどく無口で、きっと近所でも変わり者で通っていたと思います。遊びに行っても家に着いたとたんに帰りの電車の時間を時間表で調べ出すほどのせっかちで、話す言葉はほどんど「あ...」「うん...」「そうだな」くらいでした。もし私が学生だったら絶対叔父の講義だけは退屈なので取らないだろうなといつも思っていました。
 それでもそんな無口な叔父と農業の話しをするのが何故か大好きでもありました。わからないこと、疑問に思ったこと、農薬の問題など、ことあるごとに叔父に電話して、いろいろ話したものです。叔父もきっと私と他愛もない農業の話しをするのが好きだったのだと思います。母の実家の法事などで行くと必ず私を家に誘ってくれました。叔父の家に着くとすぐに一緒に畑に出向くのが、私の楽しみでもありました。
 
山を背に背負ったなだらかなよく陽の当たる斜面に、ゆるやかに作った段々畑。家の庭には、気ままに勝手に植えたようなカボチャがあちこちにゴロゴロと転がっていて、ブルーベリーやキウイ棚があり、反対側にはハウスが2棟。ハウスの中は稲わらなどを積んで発酵させた発酵熱と太陽熱で晩秋でも暖かく、野菜がすくすくと育っていました。
 私はその叔父の家の光景が大好きでした。
 
 そんな晴耕雨読の野菜作りに勤しんでいた叔父でしたが、叔母が認知症になり、それまで叔母がいろいろ作って片づけていた野菜などが一人になって困るようになり、私に送ってくるようになりました。
 
最初に叔父が困ったのがブルーベリーでした。
「いるか?」と言うので「いただきます」と二つ返事で引き受けたとたんに送られてきたのは、なんと今店で扱っているのと大して変わらないような業務用の量のブルーベリーでした。これが最初の一回目の収穫量。さらに続けての二回目の収穫、これも業務用の量。
 送られてくる業務用に匹敵する量のブルーベリーをせっせとジャムにして、今の店の業務用サイズの瓶にどんどん詰めて、どんどん従兄や近所、友人などに配って歩きました。
 
次に叔父が困ったのがキュウリでした。
「塩漬けのキュウリがあるけどいるか?」と言うので「どのくらい塩漬けにしたんですか?」と聞いてみますと、「樽にいくつも」。これにはさすがに困って、「叔父さん、塩漬けは困ります。私はピクルスを作っていますので、漬けてないキュウリなら使えます」とお返事しましたら、段ボール一杯の業務用たっぷりのキュウリがすぐに届きました。
 段ボール一杯のキュウリをせっせとピクルスにして冷蔵庫に貯蔵し、これもまた近所や友人達に配って歩きました。
 これが毎年の行事になり、毎年の私の仕事になりました。ブルーベリーの時期には業務用の量のジャムを作り、キュウリのピクルスも業務用の量、一年分人にも差し上げられる量を作って貯蔵するのが仕事となりました。
 そのほかにも、カボチャ、枝豆、白菜、叔父はいろいろな野菜を送ってきて、それが自然と我が家の食卓を彩り、我が家の加工品になっていきました。
 
 衛生協会の方に以前「お宅は加工品の種類が一杯で大変でしょう。」と言われたことがあるのですが、叔父が高齢で農業ができなくなるまでずっと我が家の年中行事としてやっていたことで、量的に少し増えた程度でしたので、店を始めた時から、あまり負担に感じたことはありませんでした。ずっとやってきたことでしたので身についてしまっていたんですね。
 
何年も続けていましたら、いつの間にかうちのジャムやピクルスを楽しみにする人、ないと困る人が出てきて、おかわりの注文も入るようになって、販売すれば良いのになどと言われるようにもなりました。すっかり皆さんの馴染みのものとなり、ピクルスが一年の食卓に欠かせないものになったお宅もありました。うちのジャムは贅沢なジャムと言われてご家族皆さんで楽しみにされているお宅も出てきました。
 
 私も私で農作物の産地では、作物の時期には作量が多くて集中し、同じように人にあげても余るほどの余って困る人達が一杯いるはず、農家さん達もA品は販売できるけれどB品は加工業者がいなければ余って困ることになるのでは、と思うことが多くなり、自分が生産地の現場に行って思う存分加工品を作りたくて、ウズウズするようになってきました。
 そうなってきますと、もう横浜などという都会でわざわざ日にちの経った高い野菜を買ったり、わざわざ取り寄せたりして加工品を作っているのが納得いかなくなってきました。
 畑の隣で加工品を作るような所で本格的に加工品作りをやってみたい、それが移住を決めた理由です。そして本当に移住してしまった訳ですが....。
 
 私達の引っ越しが決まって引っ越しの挨拶まわりをした時、「寂しくなる」とか別れを惜しむ言葉がなくてちょっと拍子抜けしたものです。代わりに言われたのが、「もうおいしいものが食べられなくなっちゃうのね」とか「お店出来たら食べに行くから」とか「絶対売れるって私が保証するって。私買うから」などでした。まだ誰にも加工品を作るとか店をやるとか言っていなかったのに、何故かそういうことに自然となっていたようで、店を始めた時にも「当然のこと」と言われてしまいました。 
 
そして、北杜市の小淵沢の今の家が出来るまでに長野県での3年半などという長い長い時間とエピソードがあるのですが、それはまたにして、小淵沢に住み始めたのが8月。
 その年にキュウリのピクルスをいつも通りに作っていつもよりちゃんとした瓶詰にしてお世話になっていた小淵沢の大手飲食店の責任者さんにまかないで差し入れしたところ、「これ、売りましょうよ!」と言われて試験販売となり、他からも引き合いもあっていきなりの販売になりました。
 「ちゃんと販売するなら営業許可を取ったほうが良いわよ」とアドバイスを受けて今の「八ヶ岳の風」の誕生となりました。
 
引っ越してすぐにずっと作っていた加工品を次々サンプル品にしてその大手飲食店の責任者さんなどに試食していただき、加工品についてのアドバイスを受けたり、盛り上がったり、引っ越しと共にどんどんと加工品の道を進んでいくこととなりました。
 
「良いものを作っていれば大丈夫」「おいしいものを作り続ければいいんですよ」そういう方々の言葉の後押しを受けて「八ヶ岳の風」は加工品業者の道へのスタートを切りました。

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posted by ねこ at 23:55| Comment(0) | 日記
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