2017年06月27日

八ヶ岳の風の始まり 母との約束

私の母はちょっとした料理自慢の人でした。
父の友人、取引相手、父の経営する会社の社員、知人など、母は自慢の料理でもてなしていました。兄にとっても私にとっても母の料理は自慢の種で、兄の友人や私の友人もやはり母の手料理でいつももてなされていました。友達がおいしいと喜ぶからと言うと、母は兄のお弁当も私のお弁当も大勢の分を作って持たせてくれました。家では常に宴会や食事会が催されていました。
 
母の料理は昭和の時代にはちょっと珍しく、和洋折衷で、華やかさがある独特なものでした。もともと探求心が旺盛で、旅先で見つけた美味しい料理やレストランで食べた珍しい料理は必ず自分で再現して自分なりにアレンジしては自分のレシピに加えていっていました。私たちは良くも悪くもその試作品をいつも食べさせられていました。

 母の料理好きは遺伝のようなものであったようです。
母の実家は宮城県の代々続いていた造り酒屋で、祖母もやはり料理上手で人をもてなしていたという話しです。
 母の実家の酒屋は松島の基地のすぐそばにあったため、戦時中は軍の依頼で軍関係者の接待やもてなしを料亭代わりに引き受けたり、特攻隊が飛び立つ時に最後の酒をふるまう役割もしていたそうです。母もそれらを手伝っていたようで、特攻隊の方々のことは、「まだあどけなさが残る人達が酒をあおって敬礼して飛び立っていく姿を見るのは本当に辛かった。首にまいたマフラーが忘れられない」と言っていました。

 戦後間もなくは、軍の依頼で進駐軍の接待を引き受けていたようです。
 物資のなかった時代に、祖母は近所の子供達に頼んで鳥もちを仕掛けて捕まえてもらった鳥を自家製の調味液に漬け込んだり、近所の子供達にアルバイトで沼のジュンサイを採らせては料理に使ったりと、様々工夫して料亭並みの料理を作り続けたようです。
 
母の姉たちも当時にしては珍しくどこで覚えたのか、母のお弁当に庭のイチジクを使ってイチジクのパイを焼くなど、昭和初めの宮城県の田舎とは思えない変わった家であったようです。
 そんな家で育った母は、やはり遺伝のように料理好きになって同じように人々をもてなすようになっていったんですね。そういう私も同じ道を進んでしまいましたが...。
 
 私が大学を卒業する頃、そんな料理好きの母が自分の店を持ちたいと言い出した時、家族の誰も反対する人はいませんでした。むしろ当然のように思いました。
 就職を決めかねていた私は当然のごとく母と一緒に店をやる気になり、毎日母と店の話しをするようになっていました。
 学生がお腹一杯食べられるお店にしたい。学生街で学生相手に店をやりたい、というのが母の希望でした。
 店を探しに行こう、そういった話しが出始めた時、母は突然脳溢血で倒れて半身不随になり、7年近く患った末に亡くなりました。

 私も母の介護と九十歳を過ぎた祖父の世話に追われ、両親、祖父を看取り、その後気が付けば30年近くの年月が過ぎていってしまいました。

 山梨県に移住し、たまたまのチャンスを得て「八ヶ岳の風」を開業したのですが、やっと30年越しに母との約束を果たせたような気がしています。
 八ヶ岳の風の料理は決して洒落た豪華なレストランのシェフのような料理ではありません。お母さんが作るお母さんの家庭料理をみんなにお腹一杯食べて欲しい、その母の思いを引き継いだお母さんの味、お母さんの料理、それが八ヶ岳の風の料理でありあり方で良いと思っています。
 それが母との約束、そう思われてなりません。

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posted by ねこ at 01:38| Comment(0) | 日記
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