2017年10月15日

私が加工品にこだわる訳

以前お話ししましたように、私は母との約束のいつか飲食店をやるというぼんやりしたイメージが若い頃から頭の隅っこにはありましたが、年取るごとに向かっているのは飲食店というよりはむしろ加工品の方向でした。
 
叔父が送ってくるブルーベリーやキュウリなどをどんどんジャムやピクルスにして配って歩いていたという生活もありましたが、40歳を超えた辺りから、急にまわりに一人暮らしの人が増え始めてきたんですね。伴侶を亡くし子供達とも同居していない一人暮らしの叔父や叔母、主人の知人や友人達も離婚して男の一人所帯ばかり。
 そういった人たちが若かった頃は良かったのですが、年取ってきて病気をしたり生活に不自由が出たりするようになってきたんです。
 そういう一人暮らしで不自由があったり病気をしたりしている叔父、叔母、知人や友人達に、料理を作って届けたり送ったりというのが日常的になってきたんです。
 毎年暮れの12月30日には人数分のおせち料理をできるだけ飽きないようにいろんな種類作って、叔父には重箱に詰めて、そのほかの人たちにはパック詰めや箱詰めにして送るのが毎年の習わしになっていました。
 
 主人の父は自分の好きなようにしかできない人で、まず人に合わせるということがまったくできなくて、子供達が面倒見ようにもどうにもならなかった御仁でした。
 この難癖ある主人の父も勝手気ままな生活が遂に祟って腎不全になり、それでもお医者様の言うことをまったく聞かなかったために「透析にするか食事療法を取るか」とお医者様から最後通告を受けてしまいました。
 他にやり手がないので、その腎不全の食事療法は私が引き受けました。
 ところが、こともあろうに、なんです。その腎不全の食事療法を引き受けた直後に今度は主人がマロリーワイズ症候群で胃が切れて大量出血で入院し、極度の貧血になったため、貧血の食事療法も一緒にやらなければならなくなりました。
 冷蔵庫に腎不全用の食事療法の指示表と栄養成分表と貧血用の食事療法の栄養成分表を両方貼って、同時に両方の食事を作る生活が半年も続きました。

 腎不全などの食事療法の難しさは、制限があってなかなか満足いく食事にならないためにおいしくない、気に入らないなどが理由で食べなくなってしまうという拒絶されるという難しさです。
 いかにおいしく、いかに長く食べ続けてもらうか、ということが大変な苦労なんですね。

 一人暮らしの人たちや、さらに病気を抱えている人たちにとって、たとえどんなに一杯料理を作っても、送ったり持って行ったり、その場で作ってあげたところで、食卓が賑やかになったりちょっと楽になる程度で、それもほんの一瞬です。
 時には自分でなんとかしようとして山ほど買い物をした後で料理が届いて、食材や料理が大量に余ってしまって困ったということもありました。
 
どんな豪華な料理よりも、どんなにその場喜ばれる料理よりも、その人達が本当に必要な時に、生活の中で本当に役に立つような、そんな日々の食事を支えられるようなもののほうがずっと重要だと思うようになりました。そのためには、長期保管できるきちんと真空パックして加工処理した加工品にして仕上げるほうが良い、もしそうできれば、冷凍庫の中にでも入れておいて、いつでも必要な時に温めて食べられる、そう思いますと、それができずにただ作っては送るだけの自分が無力に思えてなりませんでした。
 
一番悔しかったのが、スープを送ることが大変難しかったことです。 
体調が悪い時は固形物が喉を通りにくいし、食べる気力がなくなっていたりして、スープなどの汁物が欲しくなることが多い、またはそういったものしか食べられない時があることは経験からもよくわかっていながら、それだけは送ってあげられなかった悔しさです。

 手間暇かけた料理をちょっと送って一瞬喜んでもらっても、一人暮らしや闘病生活はその後もずっと毎日続くのです。ちょっと喜んでもらってどうなるというの?自分に問わずにいられませんでした。
 それよりも、もっと実践的にそういった人たちの日々の生活に本当に役に立つものを作りたい、それが私が加工品にこだわるようになった理由です。

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2017年10月11日

八ヶ岳の風の加工品の始まり

 母の義兄は東北大学農学部の教授で、大学を退官後は田舎に畑付きの家を建てて自分で研究がてらなのか論文を書きながら農薬を使用しないで野菜などを栽培していました。
 
自分で作った野菜や山で採れたアケビや山菜、薬草などを時々送ってきました。
時折、山のウドと栽培種のウドを掛け合わせた自作の新品種だの、今ではよく見かけますが20年も前の昔には見たこともないようなインカ系かなにかの変わったジャガイモの種イモを北海道の教授仲間となにやら研究していたのか、そんな変わったジャガイモなどが届くこともありました。どう料理したら良いのやらわからないような、いわゆる珍品種に近いものもありましたが....。
 
叔父はひどく無口で、きっと近所でも変わり者で通っていたと思います。遊びに行っても家に着いたとたんに帰りの電車の時間を時間表で調べ出すほどのせっかちで、話す言葉はほどんど「あ...」「うん...」「そうだな」くらいでした。もし私が学生だったら絶対叔父の講義だけは退屈なので取らないだろうなといつも思っていました。
 それでもそんな無口な叔父と農業の話しをするのが何故か大好きでもありました。わからないこと、疑問に思ったこと、農薬の問題など、ことあるごとに叔父に電話して、いろいろ話したものです。叔父もきっと私と他愛もない農業の話しをするのが好きだったのだと思います。母の実家の法事などで行くと必ず私を家に誘ってくれました。叔父の家に着くとすぐに一緒に畑に出向くのが、私の楽しみでもありました。
 
山を背に背負ったなだらかなよく陽の当たる斜面に、ゆるやかに作った段々畑。家の庭には、気ままに勝手に植えたようなカボチャがあちこちにゴロゴロと転がっていて、ブルーベリーやキウイ棚があり、反対側にはハウスが2棟。ハウスの中は稲わらなどを積んで発酵させた発酵熱と太陽熱で晩秋でも暖かく、野菜がすくすくと育っていました。
 私はその叔父の家の光景が大好きでした。
 
 そんな晴耕雨読の野菜作りに勤しんでいた叔父でしたが、叔母が認知症になり、それまで叔母がいろいろ作って片づけていた野菜などが一人になって困るようになり、私に送ってくるようになりました。
 
最初に叔父が困ったのがブルーベリーでした。
「いるか?」と言うので「いただきます」と二つ返事で引き受けたとたんに送られてきたのは、なんと今店で扱っているのと大して変わらないような業務用の量のブルーベリーでした。これが最初の一回目の収穫量。さらに続けての二回目の収穫、これも業務用の量。
 送られてくる業務用に匹敵する量のブルーベリーをせっせとジャムにして、今の店の業務用サイズの瓶にどんどん詰めて、どんどん従兄や近所、友人などに配って歩きました。
 
次に叔父が困ったのがキュウリでした。
「塩漬けのキュウリがあるけどいるか?」と言うので「どのくらい塩漬けにしたんですか?」と聞いてみますと、「樽にいくつも」。これにはさすがに困って、「叔父さん、塩漬けは困ります。私はピクルスを作っていますので、漬けてないキュウリなら使えます」とお返事しましたら、段ボール一杯の業務用たっぷりのキュウリがすぐに届きました。
 段ボール一杯のキュウリをせっせとピクルスにして冷蔵庫に貯蔵し、これもまた近所や友人達に配って歩きました。
 これが毎年の行事になり、毎年の私の仕事になりました。ブルーベリーの時期には業務用の量のジャムを作り、キュウリのピクルスも業務用の量、一年分人にも差し上げられる量を作って貯蔵するのが仕事となりました。
 そのほかにも、カボチャ、枝豆、白菜、叔父はいろいろな野菜を送ってきて、それが自然と我が家の食卓を彩り、我が家の加工品になっていきました。
 
 衛生協会の方に以前「お宅は加工品の種類が一杯で大変でしょう。」と言われたことがあるのですが、叔父が高齢で農業ができなくなるまでずっと我が家の年中行事としてやっていたことで、量的に少し増えた程度でしたので、店を始めた時から、あまり負担に感じたことはありませんでした。ずっとやってきたことでしたので身についてしまっていたんですね。
 
何年も続けていましたら、いつの間にかうちのジャムやピクルスを楽しみにする人、ないと困る人が出てきて、おかわりの注文も入るようになって、販売すれば良いのになどと言われるようにもなりました。すっかり皆さんの馴染みのものとなり、ピクルスが一年の食卓に欠かせないものになったお宅もありました。うちのジャムは贅沢なジャムと言われてご家族皆さんで楽しみにされているお宅も出てきました。
 
 私も私で農作物の産地では、作物の時期には作量が多くて集中し、同じように人にあげても余るほどの余って困る人達が一杯いるはず、農家さん達もA品は販売できるけれどB品は加工業者がいなければ余って困ることになるのでは、と思うことが多くなり、自分が生産地の現場に行って思う存分加工品を作りたくて、ウズウズするようになってきました。
 そうなってきますと、もう横浜などという都会でわざわざ日にちの経った高い野菜を買ったり、わざわざ取り寄せたりして加工品を作っているのが納得いかなくなってきました。
 畑の隣で加工品を作るような所で本格的に加工品作りをやってみたい、それが移住を決めた理由です。そして本当に移住してしまった訳ですが....。
 
 私達の引っ越しが決まって引っ越しの挨拶まわりをした時、「寂しくなる」とか別れを惜しむ言葉がなくてちょっと拍子抜けしたものです。代わりに言われたのが、「もうおいしいものが食べられなくなっちゃうのね」とか「お店出来たら食べに行くから」とか「絶対売れるって私が保証するって。私買うから」などでした。まだ誰にも加工品を作るとか店をやるとか言っていなかったのに、何故かそういうことに自然となっていたようで、店を始めた時にも「当然のこと」と言われてしまいました。 
 
そして、北杜市の小淵沢の今の家が出来るまでに長野県での3年半などという長い長い時間とエピソードがあるのですが、それはまたにして、小淵沢に住み始めたのが8月。
 その年にキュウリのピクルスをいつも通りに作っていつもよりちゃんとした瓶詰にしてお世話になっていた小淵沢の大手飲食店の責任者さんにまかないで差し入れしたところ、「これ、売りましょうよ!」と言われて試験販売となり、他からも引き合いもあっていきなりの販売になりました。
 「ちゃんと販売するなら営業許可を取ったほうが良いわよ」とアドバイスを受けて今の「八ヶ岳の風」の誕生となりました。
 
引っ越してすぐにずっと作っていた加工品を次々サンプル品にしてその大手飲食店の責任者さんなどに試食していただき、加工品についてのアドバイスを受けたり、盛り上がったり、引っ越しと共にどんどんと加工品の道を進んでいくこととなりました。
 
「良いものを作っていれば大丈夫」「おいしいものを作り続ければいいんですよ」そういう方々の言葉の後押しを受けて「八ヶ岳の風」は加工品業者の道へのスタートを切りました。

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posted by ねこ at 23:55| Comment(0) | 日記

2017年10月07日

地場産業の種 2 「八ヶ岳の風の加工品のルーツ」

私にとって、今お店で販売している加工品は、もともと日常生活にあった生活に根差したものばかりなんですね。
 加工品と呼んでしまえばそれまでなのですが、実はそれらは、もともとは日常の食事の常備菜や副菜や保存食で昔はどこの家でも当たり前に作っていたものです。
 季節のものや旬のものを無駄にせず、場所によっては野菜もなにもない厳しい冬を乗り切る知恵として作られていたものなのだと思います。
 もうじき長野県では各家で「お菜漬け」と呼んで野沢菜漬けが作られます。各家々にそれぞれの味があり、おばあちゃんの味、お母さんの味があります。塩で漬ける野沢菜漬けや醤油で漬ける切り漬け、それぞれが大きな樽や漬物桶一杯に「お菜漬け」を漬けて、春近くまでにそれを食べきっていきます。野沢菜は霜に当たるほどに柔らかくおいしくなり、野沢菜漬けは凍らせるほどにおいしくなる、そう言って凍るほど寒い冬に外にある野沢菜漬けの樽の氷の下にある野沢菜漬けを取りに行くのが長野県の冬の風景です。
 野沢菜漬けと同じ時期に漬けるのが沢庵で、沢庵も各家々にそれぞれの味があります。
 木曽にはすんき漬けという漬物があって、非常に優れた漬物なのですが、赤カブを使った漬物です。これもまた厳しい冬をできるだけ体に良いおいしい保存食で乗り切るための知恵としてある漬物です。
 ピクルスなどもそれらの漬物とまったく同じで、海外では野菜が不足する時期に野菜を補うために作られていた保存食です。
 私の母は、もともとが宮城県の田舎で育ったせいか、日々の生活はそういった常備菜や副菜、保存食を常に作り続けている人でした。そのせいか、家の食卓はいつも季節の食に彩られていたように思えます。
 2月の節分の後は豆まきで余った炒り大豆を使った鉄火味噌が食卓に並び、春先の山菜が手に入れば塩漬けにして保存し、ふきのとうはフキ味噌にし、フキの葉が出てくる頃には山の細いフキをキャラブキにしていました。山椒の葉は佃煮にし、初鰹が出ると鰹の角煮。イチゴが出始めると必ず「まだ駄目」と母は言っていました。小さなジャム用のすっぱい安くてひと箱に何パックも入っているイチゴが出る時まで待つようにと言われました。
 この小さなジャム用のイチゴが出始めると母のイチゴジャム作りの季節がやってきます。八ヶ岳の風のジャムはこの母のジャムが基本です。小さなイチゴが丸ごと入った贅沢なイチゴジャムが母のジャムでした。そのレシピ通りに作っているのが八ヶ岳の風のジャムです。
 シソが若い実を漬け始めるとシソの実の塩漬けやみそ漬け。甘夏が食べごろになると甘夏の砂糖漬けや蜂蜜漬け。叔母は甘夏の皮を使ってマーマレードを作っていました。
母の得意技が残った刺身を醤油と味醂と酢で漬け込んで翌日のおかずに変身させること。
 秋になると仙台の叔母はキノコの佃煮を作りそれを送ってきました。母はリンゴを見極めて紅玉のすっぱくて小さな玉が出るとコンポートや焼きリンゴなどの料理にしていました。
 11月ごろからは白菜の季節になり、母は山東白菜でなければダメと言って白菜漬けを作り始めました。この頃からキムチ漬けも本格的になってきます。
 新物の乾豆が出回り出すと煮豆のシーズンに入ります。おいしい豆の甘煮が食卓に並び始めます。
 沢庵、野沢菜漬け、白菜漬け、カブ漬け、切り干し大根の煮物、豆の甘煮、炒り豆腐、卯の花の炒り煮、そういったもので食卓の常備菜や副菜が彩られ、鍋物などもおいしい季節になってきます。
 本当は、秋から冬にかけてが本当に美味しいものが出そろう季節なんですね。
 そして年末のおせち料理こそがそのクライマックス。
 私の家では、おせち料理こそが家の料理の真価が問われるものと考えていました。
おせち料理には力が入ります。常備菜、副菜、保存食の結集がおせち料理です。
 海が遠い長野県などでは塩ブリが保存食として使われていましたので、おせち料理にはブリが並びます。
 各地域や各家庭がどれほどうまく保存食を使って贅沢な料理を作るかがおせち料理の基本です。ですからおせち料理には乾物が主流になっているんですね。
 新潟では雪にさらした鷹の爪を使って加工品にしたかんずり、関西では丹波の黒豆や丹波の乾燥して甘味を増したカチグリなど。各地域、各家庭が日々の食卓をより良いものにするための工夫や知恵から生まれたものが加工品のルーツだと私達は考えています。
 そういった生活の知恵や工夫から生まれたものこそが地場産業の始まりであり種であると思っています。
 中華料理の醍醐味は、特に広東や台湾が主流ですが、乾燥したツバメの巣、乾物のフカヒレや乾物のアワビなど、乾物を戻したものが最も贅沢な料理のひとつになっています。
 近年は行政指導のトップダウン方式の無理やりに名物や名産品を作るのが主流になっていますが、そういった無理強いからは決して良いもの、持続可能なものは生まれないと思っています。地域の生活に根差した無理のない、自然体の生活の中から生まれたものしか根差していくものはないと私達は考えています。
 もともとが生活の知恵から生まれたものが加工品のルーツであると私達は考えます。
 それが八ヶ岳の風の加工品のルーツであり八ヶ岳の風が考える地場産業のあり方です。

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posted by ねこ at 23:10| Comment(0) | 日記